うちの研究所の秘書さんは、最近お母さんじみてきた。
お仕えする所長や室長は、ほぼ全員が何がしかの分野の権威だ。
著作も多いし、権威ある海外雑誌への論文掲載も数多い。
要するにあまりにも大人が支配する世界で、前時代的で、その結果彼らの秘書は職業的に骨の髄までフェミニンだった。
僕は、ある日研究所の庭先で怪我をした。
春の陽だまりがポカポカと温かい、そんな日だった。
指先から血が滴り流れる。
それをちょうどうちの秘書さんが見かけ、走り寄ってきてくれた。
ポケットから綺麗なハンカチを差出し、ギュッと止血してくれる。
そして大急ぎで、救急箱を手に戻ってきてくれた。
傷は浅かったけど。
僕と彼女は確か同い年。
なのに、年寄のお偉いさんに日々お仕えする彼女から見れば、僕は少年も同然なのだろう。
僕の「傷ついた」手を自分の掌に載せ、傷口を丁寧に滅菌ガーゼで拭い、丁寧に軟膏を塗りつける。
くすぐったい。
が、彼女の白い顔は真剣そのもの、これも職務のひとつなのだ。
お互いに何故かひざまずき、膝頭を触れんばかりにして「傷ついた」手を僕は彼女に委ね続けた。
丁寧に慎重に絆創膏が指に巻きつけられていく。
その日彼女は白いシャツを着ていて、一番上のボタンだけを開けていた。
先に立ち上がったのは僕。
その時ちょうど、頭上の太陽が狙ったように彼女の首元から胸元を照射した。
なだらかで控えめな曲線の始まりが目にまぶしく飛び込んだ。
とっさに僕は目を逸らす。
「痛くないですか?大丈夫?」と彼女は秘書スマイルで僕を見上げた。
後日、彼女は研究室に差し入れを持ってきた。
それはマシュマロで、誰かのお土産だという。
僕は、人気の失せた深夜の研究室で、ひとり白いマシュマロに唇をつけた。
マシュマロの香りが甘く鼻をくすぐる。
口に含み、舌先でその甘さを堪能する。
しばらくすると僕の唾液で、マシュマロは溶けて僕の体の底へと流れ落ちた。
愛しの君
短大時代、初めての彼氏ができた。
とにかく、大人しかった高校時代のキャラを脱ぎ去って経験を積もう。
見られる存在から、見る存在へと脱皮を図るのだ。
相手は誰でもよかった。
彼は島根出身の専門学校生で、同級生だ。
わたしから告白し、彼が同情から受けてくれたらしい。
確かいつも複数人で会った。
ダブルデートとか、そういうの。
次第に彼は頻繁に電話してくるようになった。
「いま何しているの?」とか今度いつ会う?とか、そういうの。
「で、この電話の要件ってなに?」と聞くと、またも前述のごとし繰り言を繰り返す。
わたしだってヒマじゃない。
夜学だったから昼間はバイト、そして夜は学校。
それに時間ができたら美しいフランス文学の世界に没頭したりと、やるべきことはいっぱいあった。
週末、やつから電話がよくかかる。
ある時やつは言う。
実家の島根から干物を送ってきたから取りに来ない?と。
その時、わたしの心はパリのアパルトマンで暁を待っていたというのに。
そんな彼をもてあまし、私は友人に相談した。
用もないのに電話してきて、うるさいと。
すると友人は言った。
気になるからやん!好きやねんて!可愛いと思われてるんちゃうの?会ったりぃや~、と。
わたしはそれを告げるのが女性にとってどんなに難しいことか、既に知っていた。
あの子あんたが好きなんちゃう?って。
こんな単純な一言なのに、女性の口から、殊に友達に発せるのは至難の業。
その男の子とはあっさりフェイドアウトしてしまったけど、友人への愛は一層深まった。
ああ、どうして私達は同性だったんだろう?と彼女へのディープな愛は密やかに深まるばかり。
しかも彼女は人気者だから、私は彼女の永遠のone of themなのだ。